結婚の意義
互いが互いの犠牲になる結婚はよろしくない。ただ、全てにおいて独身時代と状況が変わらないなんてことはなく、どこか譲らないといけない部分も出てくるだろう。だから自分のコア、譲れない部分がどこかちゃんと把握しておく必要がある。それ以外の部分は譲っても別にいいじゃん精神。だけど、自分のコアを伸ばしてくれる人ならそれだけで一緒にいる意味になる。と思う。
人生は失敗なしには進めない
人生、挑戦して失敗してを繰り返して成長してくらしい。人生ジグザグなことを受け入れて、でも挑戦してくのが重要なんだろう。
集中力は自信から
集中力がないとよく感じてた。周りに気を削ぐようなものがあるとダメとか、いろいろ理由はあるという記事はみたけど、一番の理由は自分のやってることが正しい確信とか自信を持ってやれていなことが理由じゃないかと思うようになった。自分の中で腑に落ちない部分だったり、言い訳が思いついたりするとそれを理由にやめてしまう。絶対に正しいと思うこと、それが本当に楽しいこと、が集中力を形成すると思う。
楽しみ方
その瞬間が楽しいかどうか、が重要だなと思った。
人生で似たような瞬間と比較すると、それよりも楽しくなることってそうそうないし、年をとればとるほど経験も増えるのでそんな瞬間に巡り会える可能性は減る。そういう風に自分の中で相対的に楽しみを評価すると自然とつまんなく感じる瞬間が増えてしまう。
そうではなくて、今自分の頭が少しでも幸せを感じられていればそれでいいと思う。そんなことを今日ラーメンを食べ台湾まぜそばに思いを馳せた瞬間に思った
ちなみに日ほんのお笑いってつこっむことが笑いのきっかけになるけど、ツッコミって正しい状況と比較してる、つまり相対的な笑いだよなーと思った。そんなところからもいつの間にかその場を純粋に楽しむのでなく、何かと比較してでしか楽しみを見出せなくなってきてるのかなとも思った。
はい
確かにと思った。
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最近アラフォー童貞と付き合うことになったアラフォーおばさんだけど、基本、男女問わず、好き好きアピールが一方的だとダメなんだと思う。
自分がちょっと好意を出す→相手もちょっと好意を返す→それをしっかり受け取って、さらに好意を出すというサイクルを回して、
双方で送受信しあう好意の総量が普通の友達レベルを超えてから、個人的に付き合えるかどうかという勝負をするものなのではないかと。
自分もそういうタイプだけど、モテない人は自分の中で勝手に好意を膨らませて、いきなり好き好きアピールをぶつけちゃうから失敗する。
相手にアピールしていいのは相手からの好意にプラス1割ぐらい。
そういうちょっとずつの好意だったら気持ち悪くはならないし、相手も返していきやすいし、相手の反応が微妙だったときに失敗したときに恥かかない。
Thanks giving
stuffingとちっちゃいキャベツのにんにく炒め、的な奴がすごい上手い。ちょっとレシピ勉強しよ
暖炉やらそこらじゅうにソファーがあってゴージャスだった
声がでかくて明るくてみんな素敵な人だった
年配の人に対して気遣いはありつつ、どこか平等なのは面白いと思った。
家族であんだけ楽しく過ごせるのは素晴らしい、それぞれがどこか楽しく過ごすためのルールを守りつつ楽しくしようとするのは重要だな
あとは社長が全然会社と変わらない感じで、キャパの広さを感じた。集中してるんだろうな。どういう考え方してるのか気になるね。
やりたい人とありたい人
自分の人生においてやりたいことを追い求めるか、ありたいことを追い求めるかという話。プロ野球選手になりたい、など具体的な目標ではなくて、周囲から尊敬されていたい、とか、人が人生がうまくいくように手助けしていたい、とか自分の状況や環境、考え方を証明したい、守りたい、とかありたいに重きをおくタイプ。
自分の場合、周りに自分の能力を買ってもらっていたい、というのが今まではすごくあった。で、その買ってもらい方は、仕事の面や理屈の面で共感したり話を分かってあげることで相手の気持ちを満たすことよって買ってもらってたと思う。別にそれが実利を生むことはなくても、一旦は気が済むし気持ちを満たされるからそれが価値になってた。相手がいないと成立しない。アメリカだと通用しないやり方。ここだと自分の役割に対して、自分のやり方を主張しそれを貫いていくことで周囲から買ってもらえるようになる。別に共感とかあんまり必要とされていない、少なくとも自分のポジションに対する苦労の共感とか。本当はして欲しいのかもしれないが、自身がそれに対して愚痴ることがまず自立心にかけると捉えられそうだし、クダを巻いているのはきっと恥ずかしいことなんだろう。プロフェッショナルなんだから、だろう。
話は逸れたが、ことあるごとに目標を立ててはなんか違う、と思い挫折しまくってきたのはやっぱり目標になんて全然興味がなくて、自分のありたい姿、特に他人に依存したありたい姿(見られたい姿)に意識がいってたからなんだろう。他人に関係ない、自分自身で完結するありたいを見つけていきたい。