のうないごみ箱

散らかりっぱなしの脳みその中身をごみ箱に投げすてるがごとく書き散らしてく

落合博満

が好き

死ぬほど理屈っぽいのに愛妻家でバカ息子と言う組み合わせが愛らしい

阪神の藤波が打者の顔にぶつけてイップスになった件で、落合は周りが責めすぎていると言ってた。本人がぶつけないようにと意識するほどに投げれなくなるし、ぶつけてします。恐怖やトラウマに対しては開き直りも必要だよね

アメリカ人の良いところ

アメリカの人はcoolさを大事にしている気がする。様はカッコ良さだ。見た目もそうだが、仕事ぶりや考え方などすべてのものそれが求められている気がする。

 

coolさを追求するのがある意味人生の命題になってる気さえする。これの良い所は、自分なりのcoolさを見つけるにあたって自分の意見や考えを身につける事ができ、あっていてもあっていなくても自身を持って自己をアピールできる点と、coolと言う感覚が世界的に受け入れやすい点だと思う。カッコよく生きる姿は、たぶん世界どこに行っても共感を呼ぶと思う。

 

他方、それを求めすぎると周囲からの評価や目先のcoolさに泳いで中身がない、みたいなことになる人もいるのかもな、と想像する。

 

日本人はcoolさを追い求めて生きる、と言う文化はあまり共通項としては持っていないので意識しないが、coolと評価される所は持っているはず。それをどうアピールすれば良いのかわからないだけ、と言うのはあると思う。他方、coolを意識しないと出てこないcoolさもあるので、かぶれる必要はないけど自然な範囲でそれを身につけることも必要なのだろう。

ネットワーク不通

仕事終わって自宅に帰るとネットワークが不通になってた。携帯でサイトを確認するとエリア故障となってたので、諦めるしかない状況。しかしこれがストレスだった。家に帰るとまずPC開いて日本語聞くのが習慣になってるから、その期待が外れてうぎゃー、となった。

完全にネット依存症。だけどネットって世界どこに行っても触れられるものだから、依存する対象としては最適なんじゃ、と思った。

話逸れるが、感情を集中するのって重要なのでは、とこの時ふと思った。楽しい中でも不安があったり、なんか感情が入り交ざると楽しい事も効率もその分目減りする気がする。集中すべき時は集中し、楽しむ時は楽しむ、その純度を高める事が必要だと感じた。

座禅でもすればいいのか?、これ

 

読書感想①

 この本読んだ。

この本を一回読んだだけで理解するのは正直難しいなと思った。人間は相手に対して、特に恋人に対しては利己的になりがちで、自分の期待する動きをしてくれないと傷ついたり憤ったりする。

そもそも好きじゃないとそんな事思いもしないので、そういう感情が湧く相手がいる事はまず素晴らしいんじゃなかろか。

でも、相手もやはり違う人間だから思い通りにはならないし、敷いてもいけない。期待と受容をバランスさせるんじゃなく、双方高い位置で持っていないといけない。

相手の気持ちに立つ事の難しさを感じる本。完全に相手の気持ちと伴走する異なって不可能だけど、それでもどこか大事な部分くらいは前後10m位を走ってたいものだ。

 

彼女失格 恋してるだとか、ガンだとか

彼女失格 恋してるだとか、ガンだとか

 

 

考え方①

下の記事は将棋より遥か昔にAIに越されたオセロについて、まさにAIに越される瞬間を目の当たりにした方のインタビューだが、特にこの部分を見て考えさせられた。

オセロを知っていて実際にプレイしている人は「コンピュータで完全解析されるかどうかは、人間同士で楽しむオセロとは何の関係もないもの」と肌で分かっています。新たにオセロを始めるかもしれない人が減る可能性に関しては問題かもしれませんが……私は非常に楽観的に考えています。

オセロはそもそも人間同士が楽しむゲーム、というのが存在理由であって、人間同士がやって楽しいうちは例え完全に解析されていようとも関係ない、というのはロジカルであっている気がする。答えのある事をゲームをやるのはなんか気がひける、というのは完全に余計な発想でシンプルに楽しめば良いだけだ。

今後AIが発展していくとそんな場面が増えるんではなかろうか。 つまり、論理とか知識的な探求よりも、どうやって自身の感情や考え方を周囲との関わりの中で楽しめるか、みたいな。悪い言い方をすれば快楽主義なのかもしれない。人間の仕事がAIに奪われる、と言うけど、なら今まで仕事に費やし楽しめなかった事を楽しめば良いだけなんだろう。少なくともその過渡期にいる私たちの世代はラッキーなんじゃなかろうか。仕事も楽しんで、そのうちAIが全部やってくれるようになり別尺度でまた他の人生を楽しめるのだから。

 

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